日本という国はいい意味でも悪い意味でも同じである。
2、3日前。ふと一人旅がしたいと思って、東京に赴いた。
東京五輪を控えたこともあって、4年前に私が行ったときよりきっと素晴らしいものになっているとどこか期待したからだ。
しかしそこで私が目にしたものは、決まった方向、特徴のない恰好で道を練り歩く、働きアリのような社会人の多さと物価の高さである。
東京に勤めているということは少なくとも普通の人より優れているはずなのに、彼らは下を俯いてただ目的地まで歩いているのだ。
白髪の目立つ男性も、お洒落をしたらきっとかっこいいはずの若い男性や女性も皆同じに見える。
そしてそれに答えるように東京という土地も、どこに行っても同じ、無機質で地方を立派にしただけの土地である。
彼らはいったい何をしているのだろうか。この国の中心で働いているということは、この国を気質を最も変えるチャンスを握っているはずなのに、彼らは何故、高度経済成長期の置き土産に従っているのだろうか。
東南アジアに位置するベトナムを比較に出してみよう。
ベトナムはハノイは喧噪のある昔ながらの東南アジア。ホーチミンは東洋のパリと呼ばれるほどのリゾート街と、北と南で性格が180度違う。
しかしベトナムの場合、日本と同じようにどこに行っても同じ雰囲気の人ばかりではない。ハノイとホーチミンでは高学歴エリート、商人、農民が混在している。まさに多様性である。
確かに福利厚生やインフラなどの様々な物事を一様化することは不当な扱いを受ける人、満足な教育を受けられない人などの、あらゆる不平等を減らすことに関しては一様化ほどの優れた対処法はない。
だがどうだろう。確かに我々日本人は大金持ちであっても、貧民でも同じ公共機関、交通路を利用できるし、保険などの福利厚生も平等に受けることができる。
しかし、いじめや現在の雇用体系、お金に対する考え方というあらゆる問題は全て多様性を認めない、皆一様でないといけないという社会
のあり方が原因であるものばかりだ。
これはどうなのでしょうか?先進国の住人である我々が目指した姿なのだろうか?
きっと違う。
我々が目指すべきはあらゆる可能性、考え、生き方を認める多様な社会だ。
確かに、我々の社会は一様化によって支えられている部分が多くある。インフラ整備、経済維持などといった様々なタスクだ。
しかし、それらのタスクは別に人間が担う必要ではない。
たまたま費用がかからないから人間が担っているだけなのだ。
近い将来、必ず人間に取って代わってくれるロボットが生産される。
もしそんな社会が来たとしても、我々の社会の在り方が今のままだったら、きっと今と変わらないままだ。
どうせ未来は激動だ。我々が今すがっているものの8割は未来にはなくなっている。だから今からでも速すぎることはないし、悪いことでもない。
明日の昼間は今日の夜より、懐が広くしようと努力してほしい。気軽に考えてみてほしい。だらりとしても構わない。
あなたの明日の行動はきっと理想の未来が来る日を近くしてくれるきっかけになる。
以上。